「劇団かもめんたる」第一回公演「Semi-nuida!」

2015年7月24日(金)から26日(日)まで、新宿シアターモリエールにて「劇団かもめんたる」の第一回公演「Semi-nuida!」が開催された。もちろん面白いというのは分かっていたから元々観るつもりではあったが、開催前にう大さんが「今まで僕が作ったもののなかで、一番面白いものになりそうです」とツイートしていたこともあり、土曜昼と日曜昼のチケットを購入した。二回観ることが出来て良かった。だけどあと五回ぐらいは観たかった。

 

前からかもめんたるのことはいち観客として好きだったし、今年6月の円山スクランブルエッグスでもご一緒したので、う大さんが抜群に面白いということは分かっていた。コントとか笑いとかが法律で禁じられたら、生きていけない人だ。だからたぶん「劇団かもめんたる」も面白いだろう。そう思いつつも「劇団」という名前を頭につけることの不安も正直感じていた。すごく「劇団」っぽいものになっていたら、どうしよう、と。

 

「劇団」とか「演劇的な」とか「物語性」とか、そういったものには、ある種の引力がある。ついついそれっぽくなってしまう、あるいはそれっぽくなることが観客から許されてしまう、という魔力みたいなものが。決してそれが悪いわけではない。「物語性」というものをぼくたちは遺伝子レベルで欲しているし、それを満足させるというやり方は確かにある。だけども要は、笑うよりも、感動するほうが簡単なのだ、ぼくたちは。

 

しかも事前の情報によれば「Semi-nuida!」はヒーローものであるという。弱いヒーローが戦う物語らしい。これはちょっと、結構まずいんじゃないか、と正直思っていた。ヒーローものは、容易く感動に陥る。弱いヒーローが戦う物語、というのは鉄板だ。最初のほうで笑わせておいて、最後の最後で感動させるパターン、というのが最も合う設定でもある。まあ、でも、それはある意味で作劇の問題に過ぎない。第一回公演でもあるし、そうなったらそうなったで、良いんじゃないかと思っていた。あとはバランスの問題だからだ。

 

そう思いながらぼくは「Semi-nuida!」を観劇したわけだが、う大さんは、ぼくの予想を遥かに超えていた。このバランス感覚はちょっと異常だ。「演劇的」になりがちな主題でありながら、少しでも「演劇的」になろうとすると、そこで笑いを入れて食い止める。感動になりそうな場面で絶対に笑いを入れる。そのバランス感覚があまりにも巧すぎる。個人的に最も衝撃を受けたのは、う大さん演じるヒーロー、ミンミンボーイが口にする次の台詞だ。

 

「ヒーローが良い感じのこと言ってるときは入ってきちゃダメだ」

 

これはミンミンボーイが死ぬかもしれない戦いに挑む直前、長台詞を言っている最中に、愛する娘から思いとどまるようにカットインされた直後の台詞である。めちゃめちゃ良いシーンなんだ。「劇団かもめんたる」の舞台じゃなかったら、娘がカットインした時点で涙する観客も絶対にいるだろう。でもそこで感動に寄せない。その場面における違和感を、絶対に笑いにする。そういったさじ加減の巧みさが、やっぱりちょっと普通じゃないのだ。

 

だからと言って、この台詞が、無理に笑いを取りに行っているわけではないというのが重要なところだ。ミンミンボーイなら、そう言うだろうな、という中に留まっている。かもめんたるのコントが常にそうであるように、こいつはこんなこと言わないだろう、ということは誰も口にしない。かもめんたるのコントはいつもそうだが、登場人物がちゃんと自分の人生を生きている。だから笑いを取るためだけの台詞は言わないし、笑いを取るためだけの展開やツッコミ台詞はほとんどない。

 

余談になるが、円山スクランブルエッグスの3組、かもめんたるさらば青春の光ラブレターズは、その点が共通しているからこそ、この3組でやりたかった。この3組のコントは、登場人物が全員生きている。このコントが客前で終わったとしても、たぶんどこかでその登場人物が生きているのだ。笑いを取るためだけの人物を造形しない。そういう意味でベストの3組を自分は提案したつもりだ。それは、会場で笑うだけじゃなくて、観た人がそれを持ち帰ってくれて、いつまでも思い出して自分の人生に重ね合わせることが、コントだと思うからだ。まあ、こんなもんは余談だけども。

 

話は戻って「Semi-nuida!」は、ミンミンボーイも含めて、誰一人として便利な存在としてそこにはいない。それぞれがそれぞれの人生を生きている。それを決して演劇的にせず、常に笑いでフラットに戻そうとする。それはう大さんが、笑いの人であり、舞台で笑いが起きないことを本能的に恐れるという理由もあるだろうけど、結果として、ぼくたちは笑って良いんだ、という当たり前の事実を思い出させてくれる。どんなに深刻な場面でも、笑って良いんだと。それは人間のしぶとさでもある。「Semi-nuida!」は弱いヒーローのしぶとさを描いた作品だけど、同時に人間のしぶとさも語っているのだ。笑って良い。笑っていけないことなんて何一つないという、そんな人間の、あるいは笑いというもののしぶとさを、「Semi-nuida!」は結果的にぼくたちに伝えている。

 

そしてもちろん、その前提として「Semi-nuida!」は120分近い公演でありながら、常に笑いが起こる舞台になっている。登場人物の誰もが主人公になる場面があり、そこには必ず笑いがある。特に主役であるう大さん=ミンミンボーイはその中心にいるわけだが、戦闘の前後や普段で性格や性質が変わるというのはすさまじい発見だ。同一人物でありながら、別の種類のコントがそこに生まれる。このバランス感覚は、ちょっと普通ではない。

 

「劇団かもめんたる」の第一回公演「Semi-nuida!」は、演劇でも、コントでもない、まさに「劇団かもめんたる」としか言い様のない舞台だった。う大さんは、とんでもないものを作ってしまったなと思う。だけどそれでも、それ以上に気になるのは、槙尾さんがジェラってないかということだったりする。確かにおいしい役ではなかったと思うが、あの二役は槙尾さんにしか出来ないものなので、ほかの方々に嫉妬はしないでほしいと願うばかりだ。槙尾さんがいなければ「劇団かもめんたる」は存在していない、ということだけは伝えておきたい所存である。

 

というわけで「劇団かもめんたる」は本当にすごいことをやってしまった。舞台を観て、こんなに落ち込んで、こんなに嫉妬したのは久しぶりのことだ。円山スクランブルエッグスの第二回公演も、気合い入れてやらねえとな、と、いま心からそう思っている。