変わる竹内朱莉 変わらない竹内朱莉

アンジュルムのコンサートツアー「変わるもの 変わらないもの」の中野サンプラザ、5月7日(日)夜公演を観た。ここ最近のアンジュルムのライブは観客席の隅から隅まで問答無用で屈服させる、アントニオ猪木の言葉を借りれば「こんな試合を続けていたら10年もつ体が3年か4年しかもたないかもしれない」といった鬼気迫るものがあるが、この日のパフォーマンスも圧巻だった。ハロー!プロジェクトの他のグループと比べて云々とかアイドルとして云々とかではなく、エンタテインメントのあらゆるジャンルに対してガチンコを仕掛けている凄みがある。勿論それは、スマイレージ時代から培った確かなパフォーマンスの力と、リーダーの和田彩花の大人げない、あるいは子供じみた、意地が産んでいるのだろう。

 

ツアーのタイトルは「変わるもの 変わらないもの」。その意図を存分に汲んだ演出とセットリストはスマイレージからアンジュルムへの今、そして未来へ繋がる歴史を強く感じさせるものだったが、そんな中でも自分の目を引いたのは竹内朱莉の存在感だ。先日、5月4日に放送されたJFN「JAPAN ハロプロ NETWORK」での自身の証言によれば、1997年11月生まれの竹内が最初にハロプロエッグのオーディションを受験したのは6歳の頃。「ハロプロエッグオーディション2004」では和田彩花前田憂佳福田花音小川紗季が合格しており、つまりオーディション歴で言えばスマイレージ初期メンバーと同期である。あれから13年。少女にとってその時間は、決して短いものではない。

 

スマイレージ初期メンバーとして活動し現在のアンジュルムにも在籍する唯一の人物、和田彩花の覚醒が、ここ最近のアンジュルムをエモーショナルな運動体にしているというのは紛れもない事実だ。「変わるもの 変わらないもの」というツアータイトルを彼女はしっかりと背負っている。だが同時に、そのそばにいる竹内朱莉にも自分の目は惹きつけられる。かつては少年そのものであり、どんな男の子よりも男の子な女の子、銭湯やトイレでも女性用よりは男性用が似合うだろうとさえ思わせてくれた竹内朱莉は、二十歳を迎えるこの2017年になって女性としての魅力が増している。髪も長く伸ばし、流し目なんて実に色っぽく、もし口を閉じてうつむかれでもしたらそりゃこっちだって男だ、ちょっと黙っちゃいないだろう。ホッピーのジョッキを6〜7杯でも傾けさせてくれれば、口説かない保証はない。

 

だがそれでもやはり、変わらない竹内朱莉が確かにいるという、そこが実に魅力的なのだ。今回のツアーではメンバーが短いパンツを履いて表面積の広い生足が露わになるのだが、竹内朱莉はそこでも一切のセクシャリティを感じさせない。それは理屈を抜きにして彼女しか成し遂げることの出来ない、ある種の業のようなものだ。セクシーさを感じさせないと言っているわけではない。セクシーという装いを竹内朱莉という個人が凌駕しているのだ。それが嬉しい。まるいまるいとは言われるが、ことさら太っているわけではない。だがその足だけを見ても、それが竹内朱莉の足だとすぐに分かる。彼女の歌声を聴いて、ああここは竹内朱莉のパートなんだな、と即座に分かるように。それは明らかに、竹内朱莉にちょうど良い足なのだ。セクシーかセクシーでないかという客観的な視点よりもまず先に、これが竹内朱莉だという個が飛び込んでくる。それは特別な魅力だし、意識して出来ることではない。言ってしまえば、それは竹内朱莉の才能である。

 

勿論アンジュルムの誰一人欠けても今のアンジュルムではない。今日のステージにいなかった相川茉穂でさえ、不在という形でアンジュルムに存在している。だが竹内朱莉の存在感は、その中でもやはり特別なものがある。和田彩花はその本質として成長あるいは変化を内包していて、それがいまアンジュルムの客席を熱狂させているわけだが、竹内朱莉の本質はむしろ不変あるいは普遍にこそある。こういった存在はやはり貴重であり探そうとして見つかるものではない。数多くの才能が集まるハロー!プロジェクトの中でも℃-ute岡井千聖ぐらいではないか。どんな場所でもどんなときでもその人間性が醸し出されてしまうというのはまさしくタレント=才能である。和田彩花がもしいなければアンジュルムの現在はあり得ないわけだが、同じ程度の強い意味において、竹内朱莉がもしいなければアンジュルムは今日のアンジュルムになってはいないだろう。

 

そんなことを頭のどこかで思いながら今日のコンサートを観ていたわけだが、竹内朱莉には一つだけ文句がある。言葉にしてしまうのも申し訳ないが、それは致命的な欠陥でもある。つまり、竹内朱莉の歌とダンス、そのパフォーマンスがあまりにも素晴らしすぎて、いちど彼女に目を奪われてしまうとそこから先、ほかのメンバーを視認できなくなるのだ。歌がうまいのは分かる。それはもう才能というかセンスがあるんだから仕方がない。だがそのダンスがまた異様に魅力的なのだ。決してスタイルが良いというわけではなく、手足も長くはない。なのに肉体の置き方が抜群に良い。巧いダンスは努力の賜物だが、竹内朱莉はその巧さが必ずしも必要とされていない曲でさえ動きで視線を惹きつける。スマイレージ時代のいわゆるアイドルっぽい楽曲、ある意味で緩慢な振り付けでさえ、手の先、足の先まで完璧に配置し、それを見る価値のある商品に仕立て上げている。言ってしまえば、これが芸というものだ。ほかの誰も真似が出来ない。所謂スキルメンと呼ばれるメンバーはハロー!プロジェクトの中にも少なくはないが、総合的なパフォーマンス能力で言えば、いま現在なら竹内朱莉だろう。なかなかそうは見えないタイプだし、そう思わせないというのもまた彼女の魅力ではあるが、とにかく抜群に巧い。そしてまた、巧すぎないのだ。コンサートの序盤で彼女のダンスに魅了された自分は、もうそこからは竹内朱莉しか見ていなかった。そんなつもりもなかったのに。

 

本来であれば、アンジュルムのメンバーを均等に観たかったのだ。そのためにチケット代金を払っている。つまり自分は竹内朱莉のパフォーマンスが素晴らしすぎることによって、あやちょ、かななん、りなぷー、むろたん、りかこ、かみこ、かっさー、以上7名のメンバーを観る機会を失われているということになる。これを大問題と言わずとして何と言うのか。竹内朱莉を観ることを選んだのが自分の自由意志だというのも事実だが、同時に竹内朱莉のパフォーマンスが素晴らしかったせいで他のメンバーを観る機会が失われたというのもまた等しく事実である。もし自分が竹内朱莉の同級生だったら、同級生というか同い年の幼馴染の腐れ縁というか、別に、異性としてどうこうなんてのは本当にまるでなくて。朱莉がアイドルになりたいとかオーディションを受けてるっていうのは親から聞いてたけど(注・俺の両親と竹内朱莉の両親は俺や朱莉が物心つく前から家族ぐるみで仲良し)、俺はジュニアの野球クラブに入ってたから土日は忙しくてあいつのコンサートに行ったことなんてなかったんだ。って言うか、正直、それを言い訳にしてたんだけど。あいつが遠くに行っちゃったってこと、頭では分かってはいたけど、自分の目でそれを直接見るのが怖かったんだ。俺の中での朱莉は、ずっと昔から知ってる、変わらないままの朱莉でいてほしかったから。

 

だけどもう、俺も二十歳になる年だから、今日の中野サンプラザに行って。最初の何曲かはアンジュルムのカッコいい感じだったから冷静でいられたんだけど、スマイレージ時代の曲が流れた途端になぜか泣いちゃって。「変わるもの 変わらないもの」って意味がいきなりリアルになる感じでさ。あの頃の朱莉と今の朱莉は、変わっちゃったかもしれないけど、でも朱莉は朱莉のままだったんだ。自分は自分で、あの頃と変わってないことに焦ってばっかだけど、でもこれからいくらでも変われるんだぜって背中を押された感じも確かにあったんだよ。朱莉が泣きそうになったときに俺は泣きそうになってたし、朱莉が笑ってたときに俺も笑ってた。恋とか愛とかそういうんじゃなく、もっと手前の感じで、ああ俺はやっぱり朱莉のことが好きなんだってしっかり思えたんだ。「変わるもの 変わらないもの」は、どっちも大事なものとして、ちゃんと俺の中にあるんだ。

 

コンサートが終わってから、朱莉に久しぶりにLINEを送った。「お前のことしか見られなかったじゃねーか! チケット代払え!」って。そのカラ元気が今の俺の全力だ。メッセージはすぐに既読になったけど、返事はまだ来ない。自分で自分が恥ずかしくて、既に消したい過去だけど、親指一つで消せるほどに人の過去は軽くない。だからこの時間になってもベッドの上で足をバタバタさせているのだ。

 

これは恋でもなく愛でもない。ただ単に、竹内朱莉のことが好きだという、そんな男がいたという話だ。