ももちの小指は何を指し示していたのか? 〜「嗣永桃子ラストライブ ありがとうおとももち」を観て〜

15年間ずっと真っ直ぐに立っていたその小指は、夜空へ向けて伸びたままにステージの下へと消えて行く。そして客席からの歓声を浴びながら、嗣永桃子自身の手によってゆっくりと握られた。15年間お疲れさま、と言うように。2017年6月30日、青海野外特設会場「嗣永桃子ラストライブ ありがとうおとももち」の、それが最後の場面だ。

 

嗣永桃子ハロー!プロジェクトにもたらしたものは数多い。その中でもやはり重要なのは「プロフェッショナルとは何か」を理屈立てて考え、それを実践し、後輩たちに伝えたという点になるだろう。それは結局のところ「客前で起こることこそが真実である」というエンタテインメントの真髄、本質である。

 

たとえば嗣永桃子はコンサートで泣くことが滅多にない。涙を見せることがあっても、それが理由で歌えなくなったり喋れなくなるということはまずない。それは嗣永桃子の性格が冷淡だからということではなく、というか彼女はむしろ人並み以上に感情豊かな人間だと自分は思っているが、「本当の嗣永桃子」の心情よりも「客前の嗣永桃子」のパフォーマンスを優先する、と彼女が決めているからだ。いかなる理由であれ、「客前の嗣永桃子」の理想像が崩れることを彼女は避けていて、それこそが彼女にとってのプロフェッショナル観だ。

 

その嗣永桃子のイズムは、確かにカントリー・ガールズのメンバーへ正しく受け継がれている。「嗣永桃子ラストライブ ありがとうおとももち」でも、涙して歌えなくなるメンバーは一人もいなかった。船木結はメッセージを読み上げながら涙に暮れていたが、それでも嗣永桃子の言いつけの通り、最後まで途切れることなく読み上げていた。どうしても泣いてしまう本当の船木結に、客前の船木結は、決して負けてはいなかった。

 

そしてこの日の「愛おしくってごめんね」は、嗣永桃子が作り上げたカントリー・ガールズの、まさに最高傑作だと言えるだろう。良くも悪くも物語を背負った曲だ。しかし冒頭のセリフをここぞとばかりに取り上げたももちを、斜め後ろから困り眉毛でずっと見つめるやなみん。卒業コンサートなのに、どうしたって笑ってしまう。そして最後に、ほかの全員から蹴飛ばされて転んで悔しがるももち。この一曲のパフォーマンスの中に喜怒哀楽がある。これを、嗣永桃子卒業コンサートなのにしっかり出来てしまうカントリー・ガールズこそが、やはり嗣永桃子の最高傑作なのだ。

 

15年間という時間はアイドルにとっては決して短くはない。様々な偶然が重なったからこそ、私たちは嗣永桃子の大切な15年間を借りることが出来た。だからこそ、それは受け継がれなくてはならない。ファンにも、メンバーにも、スタッフにも。嗣永桃子は今日「私は自分のことが大好きです」と言い、そしてそうさせてくれた人たちに感謝の意を述べた。自分のことが大好きだと言い切るももちのことが大好きだった。出来るなら、ずっとももちにはそうであってほしい。だから私たちは、彼女のことを忘れない。思い出を後世へと紡ぐのは、残された者の仕事であり使命だ。

 

嗣永桃子ラストライブ ありがとうおとももち」の最後の場面は、それを見た多くの人間が想起したように、「ターミネーター2」のラストシーンだ。アイ・ウィル・ビー・バック。だがそれは、嗣永桃子の復活の予告ではないだろう。嗣永桃子はまだ生きている。私たちの中で、そして残されたカントリー・ガールズのメンバーの中で。いつだって蘇るよという、それは嗣永桃子のある意味での呪いの言葉だ。あの小指を見た全ての人間にかけられた幸福な呪いである。私たちは、これからもずっと、嗣永桃子とともに生きていく。

 

そして最後に、一つだけ。嗣永桃子は「嗣永桃子ラストライブ ありがとうおとももち」でまた違う呪いをかけた。「客前で起こることこそが真実である」を体現し続けてきた彼女は、「カントリー・ガールズのライブにはこっそり見に行く」「カントリー・ガールズの新曲が出たら聞く」とあの場で公言したのだ。彼女がそう口にした以上、カントリー・ガールズのライブは行われなければならないのだし、カントリー・ガールズは新曲を出さなくてはならない。そうでなければ寸法が合わないし、良くも悪くも愛に溢れた事務所だ、これを聞かなかったことには出来ないだろう。カントリー・ガールズはまだ終わっていない。終わってはならない。嗣永桃子がラストライブで客席と交わした約束は、呪いとして生き続ける。

 

嗣永桃子ラストライブ ありがとうおとももち」は嗣永桃子からの別れの挨拶ではあったが、それでも同時に、未来のカントリー・ガールズとの出会いの約束にもなった。素直じゃなくて不器用でカワいくないやり方だけど、愛おしくて忘れられないのだ。カントリー・ガールズの未来はこれからまた始まるのだという、つまり、それは、運命(さだめ)である。